江戸時代、日本の刑罰制度において「流罪」、通称「島流し」は死刑に次ぐ重い刑罰とされていました。しかし、島流しと聞くと、孤立した無人島に送られる厳しい刑罰を想像するかもしれませんが、実際の生活は意外にも異なるものでした。
「島流し」として送り込まれた場所は、佐渡島や伊豆七島など、普通に人々が生活する場所でした。罪人たちは、島の住民と共に生活することが許され、村内の囚人が全体の10%以下になるように配置されました。また、彼らは犯罪防止のために5人組と呼ばれる連帯責任組織に所属し、監視されながらも基本的には自由な生活を送っていました。
制約としては、「島から抜け出さない」「他の村に行かない」「流人同士で交際しないこと」といった規則がありましたが、これらは厳しい制限とは言えません。むしろ、罪人たちは与えられた畑を耕し、自らの生活を支えるために農作業や漁業、大工仕事などを行うことが求められました。
流罪になった者たちには、身柄の拘束がなかったものの、生活のために自ら食糧を確保する必要がありました。裕福な者は、米や金銭を島に持ち込むことが許され、親族からの仕送りも可能でしたが、それだけで一生暮らしていくことはできません。
そのため、多くの罪人は与えられた畑を耕したり、村の住民と協力して働きながら生活を支えました。
当然のことながら、島の住民たちは罪人が送り込まれることを歓迎していたわけではありません。
特に凶悪犯が送り込まれることに対しては強い抵抗感を抱いていました。そのため、島役人に賄賂を渡して罪人の受け入れを回避しようとすることもありましたが、こうした不正を防ぐために後にはくじ引きで送り先が決められるようになりました。
御定書百箇条によると、島流しの刑が適用されるのは以下のような罪を犯した者でした。
江戸十里以内で許可無く鉄砲を所持する者幼女を強姦した者博打の胴元女を犯した寺持ちの僧指図を受けて人を殺した者人殺しの手伝いをした者不当な言いがかりをつけられ刃傷沙汰に及び、相手を殺した者口論の上で人を傷つけ、重度の後遺症を負わせた者車を引っ掛けて人にけがをさせた者15歳以上で殺人や放火を企てた者こうしてみると、島流しにされる罪は非常に幅広く、また一部の罪については判断が微妙であることがわかります。同じ殺人でも、情状酌量の余地があれば島流し、それがない場合は死刑となるなど、適用される刑罰には大きな差がありました。
島流しの刑は多くの場合無期刑でしたが、幕府の気まぐれで恩赦が出ることもありました。しかし、それがいつになるのかは誰にも分からず、囚人たちはただひたすら恩赦を待ち続けるしかありませんでした。
一方で、島に送られた罪人たちがその気質を改めることなく、さらに罪を重ねることもありました。そうした者たちには、より過酷な条件の島に送られるか、場合によっては死刑が適用されることもありました。これは、島の住民たちが安心して生活できるようにするための措置であり、厳罰が求められたのです。
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