去年の夏、私は実家に帰るために新幹線に乗りました。旦那が仕事で休めず、私と5歳の子供だけで指定席に座っていました。混雑していたため、同じく子供を連れたママが通路側の肘掛に座り、詰めてきました。狭くて嫌な気分でしたが、子供は窓側に座らせていました。
しかし、眠ろうとしているときにそのママに声をかけられました。「小さな子供が一人で座っているなんて、席がもったいないじゃん」と言われました。私は断りましたが、彼女は自分の子供も座らせてほしいと言いました。私はそれを拒否しましたが、彼女は「うちの子も座りたいのよ。具合が悪くなったらかわいそう」と言いました。
私たちはしばらく言い争いをしましたが、私はイライラがピークに達しました。
彼女は懐柔しようとしましたが、私は金を払うようにと言いました。私は指定席の分の金を支払っているのに、彼女はそれをケチろうとしていると感じました。私はただ「金払え」と繰り返すだけでした。彼女は泣きそうになりましたが、私は彼女の演技かもしれないと思いました。
その後、車掌さんが来て、切符を見せながら状況を説明しました。車掌さんは私の言う通りだと言いました。「指定席のない方は座れませんが」と言いました。彼女は何もできないようでした。通路に立っている人が多かったため、私たちは他の場所に移動することもありませんでした。
周囲の人々は私たちのやりとりを知っていたため、恥ずかしい思いをしましたが、もはや気にしませんでした。最後の駅まで乗り続けました。
新幹線では指定席の通路に他の人を入れないでほしいと思います。金を払えと言ったことによって、私は彼女に対して主張することができました。
上記の内容への声
このエピソードは、現代社会に蔓延する「 entitlement mentality」(権利意識の肥大化)を如実に表しています。新幹線での出来事という日常的な風景ながら、そこには現代人の歪んだ権利意識と、それを許容する社会の病理が凝縮されています。
この母親は、自分の都合を優先し、他人の権利を侵害することに罪悪感を抱いていません。指定席というシステムが存在するにも関わらず、「子供が可哀想」という感情論を盾に、正当な権利を持つあなたに無理強いを繰り返しています。これは、現代社会に蔓延する「自分が良ければそれでいい」という自己中心的思考の表れであり、強い憤りを覚えます。
さらに問題なのは、周囲の無関心です。多くの人は、トラブルに巻き込まれることを恐れ、見て見ぬふりをします。この母親も、周囲の沈黙を「暗黙の了解」と捉え、自身の行動を正当化していたのかもしれません。社会全体として、このような「見て見ぬふり」
あなたの毅然とした態度は賞賛に値します。泣き落としなどの姑息な手段に屈せず、「金払え」と一喝することで、あなたは彼女の身勝手さに鉄槌を下しました。これは、単なる金銭の問題ではなく、社会のルールやモラルを守るための、当然の抵抗です。
この出来事を教訓に、私たちは自身の権利意識を見つめ直すと共に、他人の権利を尊重し、ルールを守る社会の構築を目指さなければなりません。
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